En hommage à SPI

SPIへのオマージュ

(GMT)Gandhi カード解説

73【(1916年~1921年)第27代総督チェルムスフォード子爵】
第一次大戦後期からインド総督を務めた彼は、1919年のモンタギュー・チェルムスフォード改革によって地方への一部分権と直接選挙制の導入など、インド人による自治を促す一方で、第一次大戦後は治安法令・ローラット法で民族運動を弾圧、その過酷な強圧統治のおかげで、インドの民心はイギリス支配から離反していった。
総督の言う"自治"とは、イギリスが都合よくインドを支配することを意味していた。

 

74【(1921年~1926年)第28代総督レディング伯爵】
民族主義者との和解を試みたレディング卿は、ガンジーとも会談している。しかし、1922年にガンジーを逮捕したのも彼だった。ガンジーは6年の重労働の刑を受け、リーディング卿は1926年の独立運動が盛んになる中で任期を終えて帰国した。

 

75【(1926年~1931年)第29代総督アーウィン男爵】
高まる反英運動に対して弾圧と宥和政策を使い分けてインドを統治した。サイモン委員会、円卓会議、塩の行進、ガンジーの引見など、彼の提督時代にはインドの運命を決定付けた出来事が多い。

 

76【(1931年~1936年)第30代総督ウィリンダン伯爵】
ウィリンダン卿は、前任のアーウィンとの政治姿勢は全くの正反対の人物であり、非暴力運動を徹底的に弾圧した。10万人以上のサッティヤーグラハ参加者の投獄、数千人の土地・家屋、その他の財産の没収、民族主義的な新聞に対する検閲を実施した。ウィリンダンの弾圧は最終的に成功を収め、民族運動は1934年には事実上壊滅、1935年には新インド統治法が公布された。

 

77【(1936年~1943年)第31代総督リンリスゴー侯爵二世】
イートン校を卒業、第一次世界大戦に従軍した彼は少佐まで昇進した。
1935年インド統治法で約束された州選挙を統括し、第二次世界大戦が始まると、立法議会を無視して数々の戦争協力を決定した(インド統治法上、総督は議会の同意を得る必要はなかった)。
ネルーは「一人の男が、それも外国人で、憎悪される制度の代表者である男が四億の民に一言の相談もなく戦争に突入させる権限を持つのは腐敗している」と批判した。インド国民会議もイギリスへの戦争協力を一切拒絶した。
1941年3月に任期が切れたが2年延長され、反英運動が高まる中、イギリスに帰国した。
インド社会とイギリスとの決裂は、この時期に決定的となったと言える。

 

78【(1943年~1947年)第32代総督ウェーヴェル子爵】
第二次世界大戦では元帥として北アフリカ戦線に従軍、その後インド駐留軍司令官として日本軍との戦闘の指揮を執るも敗北、1943年10月からインド総督に就任し、行政分野に転じた。
当時は、日本の軍事的成功によって、アジアにおけるイギリスの威信は完全に失墜しており、インド独立運動も激しさを増していた。戦後も宗派主義者の暴動を止めることができず、イギリス撤退の準備を行った。

 

79【(1947年)第33代総督マウントバッテン子爵】
最後のインド提督。1947年に一年だけ提督を務めた彼は、インドからのイギリス撤退、インド・パキスタンの建国を統括した。
第二次大戦開始時は第5駆逐艦隊司令として駆逐艦HMSケリー」に乗り(同艦は1941年のクレタ島の戦いで沈没)、1942年には悪名高いディエップ港奇襲作戦を指揮、その後は、東南アジア地域連合軍総司令官に就任した(しかし緒戦で敗退、インド洋からイギリス海軍艦隊が撤退する)。
1943年1月には、チャーチルルーズベルトカサブランカ会談とカイロ会議に出席している。

 

1【英領インド軍、帝国を守る(WW1)】
驚くべきことに、少なくとも1914年まで、インド人の知識層は十分な国家概念を持っていなかった。そのため、インド総督に対してナイーブな信頼を寄せていた。
第一次大戦が始まると、藩王国はもとより、インド国民会議派までもがイギリスへの戦争協力を申し出た。藩王が積極的に協力したのは、イギリス政府の庇護が彼らの特権を支えていたからだった。一方、インド国民会議派は、大英帝国に協力することで、将来その構成分子としての地位にふさわしい権利が得られると考えていた。
1914年7月にロンドンにいたガンジーは、「イギリスの危急をわたしたちの好機に代えてはいけない。戦争が続いている間は、わたしたちの要求をつきつけないほうがかえって適切である」と言い、在英インド人に戦争協力を呼びかけ、野戦衛生隊を編成しようとした(後年、彼はこれについて「わたしの過ちの一つ」と述べた)。
戦争が勃発すると、インドは当時の年間税収入(1億ボンド)との同額をイギリスに寄付、毎年3,000ポンドを派兵費として援助した。政府は、義勇兵を集めるために、地主に一定数を割り当てて、強制的に小作人を兵士にした。
物資面でも多量の資源を提供したため、国内では食料や燃料の不足が目立ち、人々の生活は次第に困窮していった。
ところが戦後、イギリス政府はインド人自治への移行時期を先延ばしにした。さらに1919年にインド統治改革法とローラット法(カード26)が施行されるに及んで、インドの反英運動は激化した。
一方、ムスリム連盟は、トルコがドイツと同盟し、彼らの敵がイギリスだったことから、はっきりと反英決議を打ち出していた(ムスリムにとって、トルコのサルタンは全世界のムスリムのカリフ(教主)である)。
(森本達雄『インド独立史』中央公論社、1972年、91-92から要約)

4【サイモン委員会の報告書】
1927年に設置されたインドの法定委員会、別名サイモン委員会は、インド人に対し、過去よりも多くの代表権を与えるための調査委員会だったが、メンバー全員がイギリス人で占められていたため、インド全土に抗議運動が広がり、抗議は時として暴力的になった(カード47)。サイモン委員会の調査は、最終的に1935年のインド統治法(カード29)として結実した。

5【第一回英印円卓会議】
サイモン委員会の報告(カード4)を受けて、イギリス人とインドが対等の立場で論議するために1930年に開かれた会議。ガンジーを含むインド国民会議派は、これを茶番であるとしてボイコットした。会議の開催そのものが国内の政治的対立を生み、インド国民会議派による1929年のラホールでの円卓会議への不参加の表明は、翌年の塩の行進(カード55)につながった。

6【チャウリー・チャウラーの虐殺】
1922年に非暴力主義者達と警察との間で起きた衝突における警官の発砲に対して、デモ参加者達は放火で対抗した。警察署にいた22人の警官が死亡、市民側の犠牲者は3人だった。この事件を受けて、ガンジーは非暴力運動を全国レベルで中止させた。

10【アウンド州、実験的な自治
1938年、独立運動を支援していたアンウド藩王国のマハーラージャ(君主)Bhawanrao Shriniwasraoは、スワラジ(インドの自治、独立、解放)のための実験として、ガンジーが起草した憲法によって王領内で自治を始めた。この試みは1947年のインド独立まで続いた。



12【ダラサナ製塩所への侵入・塩の行進】
冷蔵設備のない熱帯地方では、塩は食料の保存に欠かせないものであり、イギリスはこのとことをよく知っていた。Raj政府が定めた塩への課税は、インドの市民生活を圧迫するものだった。国民議会派は1880年代の設立当初からこの課税に反対しており、それは20世紀に入っても重要な問題だった。
1930年、塩の行進(カード55)では、ガンジーらは海岸まで行進し、非合法の製塩をはじめた。次にガンジーは、ダラサナ製塩所に踏み込む計画を立てた。貯蔵してある塩の庶民への分配を要求する予定だった。実行する直前にガンジー本人は逮捕されたが、彼の弟子たちが整然と製塩所の門に向かって行進した。待ち受ける警官の棍棒に叩きのめされたが、倒されても反撃することなく、後続の民衆が警官の棍棒にたち向かい前進した。この映像は世界中に流され、世界の人々にインドの運動のユニークさを印象付けた。

14【自由の戦士、武器を取る】
1931年に24才の若さで処刑されたバガット・シン(Bhagat Singh)は、当初は、ガンジーの非暴力運動に加わっていた。武力闘争に転じたのは、1928年ラホールでの非暴力のデモ中に、独立運動のリーダー、ララ・ラジパット・ライが英国警官達に警棒でめった打ちにされたことを目撃したことが原因だという。ララは、その怪我により翌月死亡した。
バカッド・シン達は報復として、警察署前で英国警察の責任者を射殺。実際には、狙っていた人物ではなく副官だった。以来、バカッド・シンはシーク教徒の長髪を真似、髭を短く切って潜伏した。ポスターの帽子に鼻髭スタイルはその時のものである。
1929年春、バトゥケシュワル・ダットと二人で、国会議事堂の中で爆弾を投げ、"インケラーブ・ジンダーバード!"(革命万歳)と叫びながらリーフレットを撒いた(カード19)。プロパガンダとして殺傷性の低い爆弾を使ったので、死傷者は出なかった。駆けつけた警察に連行されるのも予定のうちで、逮捕後は法廷闘争に転じ、やがて他の同志達も捕縛されると獄中闘争を始める。英植民地官憲による拷問が続く中、63日間のハンガーストライキを行った。
ガンジーをはじめとするインド社会からの特赦運動にもかかわらず、1931年、バカッド・シンは、仲間のシヴァラム・ラジグル(Shivaram Rajguru)、スクデヴ・タパル(Sukhdev Thapar)とともに、警察副官J.P.サウンダーズ殺害の罪で絞首刑に処された。ガンジーは「我々に課せられた戒律は、怒りを飲み込み、協定を遵守し、義務を遂行していくこと」と声明した。


今日のインドでは、過激な反英運動を行った人たちの人気が高く、バガット・シンにいたってはガンジーを上回る人気で、何度も映画化されている。

15【キッサ・フアワニ市場虐殺事件】
1930年4月23日ペシャワールでパシュトゥン人による反英デモが実施されたが、参加したパシュトゥン人は非暴力主義を貫いた。これらに対し英軍が無差別発砲したため400名の死者が出たが、ヒンドゥー教徒からなるガルワール小銃連隊(The  Garhwal Rifles)の2個小隊は命令を無視して鎮圧に参加せず、後に軍法会議で有罪判決を受けた。
(森本達雄『インド独立史』中央公論社、1972年、152-153)

16【"パキスタン宣言"をロンドンで発行】
"パキスタン"の名称は、ケンブリッジの留学生チョーダリー・ラーマット・アリ(Chaudhary Rahmat Ali)による考案だった。
英国の支配下、1919年頃から漠然とムスリム国家の建設の希望が生まれる中、1930年のムスリム連盟大会で詩人ムハマッド=イクバールが、西北インドでの「ムスリム・インド」建国を呼びかけた。
イクバールの提唱に啓発されたラーマット・アリは、1933年にロンドンで『今でなければ二度となし』と題するパンフレットを印刷、パンジャーブ・アフガン(西北辺境州)・カシミール・シンド・バルチスタンからなるムスリム国家を提唱した。そしてその国を、最初の4州の頭文字、P・A・K・Sとバルチスタンのスタン Stan(州、国の意味)をとって、パキスタンとして命名、その国名は、同年に英印円卓会議で訪英したムスリム代表団に採用された。

17【王の中の王、ガッファー・カーン】
パシュトゥン人であり敬虔なムスリムであるアブドゥル・ガッファー・カーン(Abdul Ghaffār Khān)は、ガンジーの非暴力運動の熱心な支持者だった。
ペシャワール郊外のウトマンザイ(Utmanzai)の裕福な地主の家に生まれた彼は、イギリス人宣教師が経営するミッション・スクールを卒業、ペルシャワールのイギリス部隊に入隊後、すぐに除隊、私設の学校を開き、民族運動に入ってゆく。
“バドシャー・カーン”(Badshah Khan、王の中の王)とも呼ばれたカーンは、クッダイ・キットマッガール「(神の奉仕者」団)のリーダーとして、非暴力主義によってイギリス支配に抵抗した。
インドとパキスタンの分離独立に反対したカーンは、パキスタン建国後、多くの時間を自宅軟禁で過ごし、1988年にペシャワールの病院で死去するとアフガニスタンに埋葬された。




18【ジンナー、ムスリム・インドを提唱】
1876年、カラチで生まれたムハンマド・アリー・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)は、1913年から1947年のパキスタン誕生までムスリム連盟の代表を務め、建国後は初代パキスタン総督に就任した。

ジンナーは1940年代から結核を患っていた。この事実を知っていたのは、ジンナーの姉妹とジンナーの側近のみであったが、1948年から健康状態は悪化、その年の9月11日、結核と肺がんの合併症により死去した。パキスタン独立後の総督としての負荷が、ジンナーの健康状態を悪化させたと言われる。

20【ベンガルでJugantarを結成】
1905年、インド総督カーゾン卿によってベンガル分割令が施法されると、インドの民族運動は激化、翌年、Jugantarが結成された。
第一次大戦中、Jugantarはドイツと共謀して政府転覆を図ったが失敗(German Plot)、以降、非暴力的活動に移行し、1920年からはガンジーの運動を支持した。幹部の逮捕や内部分裂によって力を失い、1938年にはインド会議派に吸収される。

24【チッタゴン武器庫の襲撃】
1930年、スーリヤ・セン(Surya Sen)率いる65名の革命派は、東ベンガルチッタゴンにある警察署と駐留部隊の武器庫を襲撃した。襲撃では弾薬を奪うことができず、革命派はチッタゴンの丘で数千名のイギリス軍に包囲された。
イギリス軍に80名、革命派に13名の死者が出る中、スリヤ・センらは近隣の村に逃げ、襲撃を続けた。スリヤ・センは1933年に発見され、翌年死刑にされた。
今日では、スリヤ・センは英雄とされ、切手になっている。

 

25【モンタギュー帝国統治を宣言】
第一次大戦後期、次第に自治要求が強まっていたインドでは、自動的に戦争支援に組み込まれたことに対して強い反対が生まれた。インドの反英運動を抑え、戦争協力を継続させるためには一定の譲歩が必要と考えたイギリス政府は、1917年8月20日、インドに対して戦後の独立を約束した。
すなわち、下院においてインド担当国務大臣のモンタギュー(Edwin Montagu, the Secretary of State for India)が「イギリス帝国の構成分子として、インドに責任政府一歩一歩実現させるべく、自治制度を漸次発展させる」との方針を声明した。翌日、イギリス政府は、軍に9名のインド人将校を任命することを発表、さらにモンタギューはベサント夫人(イギリス人の神智学者で、インド民族運動の協力者。1916年、ティラクに協力してインド自治連盟を結成したが治安法違反で投獄されていた)他2名を釈放した。

しかし1919年のインド統治法の改正と人権無視のローラット法(カード26)の制定により、戦後のインド独立運動はかえって激化することとなった。

27【第二回円卓会議ロンドンで開催】
塩の行進(カード55)、ダラサナ製塩所(カード12)などから、イギリスは事態の打開を図るため、1931年に第二回円卓会議を開いたが、この会議はインドに何ももたらさなかった。
席上、ガンジーは完全自治の実現を要求したが、議論はインドの宗教団体や政党の駆け引きにすり替わり、ガンディーは得るところなく帰国した。
チャーチルは、「扇動者であるこの男が、英国の代理人と対等で話すために、副王宮殿の会談を裸足で登ってゆく。なんと嘔吐すべき侮辱的な光景か!」と述べた。
帰国後、ガンジーが非協力運動の再開すると、イギリス当局は彼を逮捕、裁判なしで投獄した。

28【イギリス、分割統治を模索】
数千年に及ぶヒンズー教徒とムスリム教徒の対立は、政府がインドを分割統治するのに都合がよかった。ガンジーコミュナル裁定(カード64)をはじめとするイギリスの分離政策に反対したが、ジンナー(カード18)は、イギリスに協力することで1940年代にムスリム連盟の指導者達を釈放させることに成功した。

29【1935年インド統治法】
1935年、1919年のインド統治法に代わるものとして、新しいインド統治法が制定された。
インドに大幅な自治を認めたはずだったが、実際には様々な保留事項を設けた見せかけの自治法にすぎなかった。
1937年の選挙で国民会議派が大多数を占めると、少数派となったムスリム連盟は「ヒンドゥー支配体制」の到来として危機感を持つようになり、ジンナー(カード18)はイスラム圏の分離独立を推される。一方、国民会議派は、戦争への協力に反対して1939年に総辞職した。そのような中で第二次大戦が勃発する。

36【クイット・インディア運動】
第二次大戦が始まると、イギリスは「インドをイギリス連邦自治領として認める」と宣言したが、目的は兵士の供給源としてインドを利用することだった。それに対しガンジーは、「クィット・インディア(インドから立ち去れ)」をスローガンに反英大衆運動を開始した。その翌日、ガンジーネルーは逮捕され、指導者の逮捕に怒った民衆は一斉休業に踏み切り、デモや蜂起が各地で発生するなど反英運動が拡大、会議派の組織的活動が事実上不可能になった。同時期、ムスリム連盟は対英協調で勢力を固め、パキスタン独立の基礎を作った。

41【サー・マイケル・オドワヤー暗殺】
アムリットサル虐殺事件(カード71)の責任者と目されたサー・マイケル・オドワヤー(Michael O'Dwyer、パンジャーブ副総督)は、1940年、事件の生存者によってロンドンで暗殺された。



46【バールドーリでのサティアグラハ】
1928年、グジャラートのバールドーリで、政府の地租引上げにサティアグラハ(不服従)で抗議、政策を撤回させた。リーダーのヴァッラブバーイー・パテール(Vallabhbhai Patel)は、以来「サルダール(指導者)」の名でよばれる。

 

47【ラージパット・ラーイ、デモ中に殺害】
ラージパット・ラーイ(Lālā Lajpat Rai)は、パンジャーブの出身の活動家。教師,弁護士として活動し、アーリヤ・サマージの宗教・社会運動にも携わる。1888年から国民会議派に参加,1905‐08年のベンガル分割反対闘争ではティラク、パールらと共に民族派の主要な指導者となる。13‐20年は海外に滞在。ガンディーの非暴力抵抗闘争に加わり、1928年のサイモン委員会ボイコット運動で先頭に立つが、警官の警棒攻撃にあい死亡する。

49【独立の日、決然として宣言】
1929年、国民会議派の大会がラホールで開催され、ネルーが議長となって「プールナ・スワラージ(完全独立)」を目標とすることを定め、円卓会議への不参加を表明、「独立の誓い」を行った。これはインド独立運動の重要なステップとなり、1930年の塩の更新(カード12)の布石となった。

50【準軍事組織RSS
RSS(民族義勇団)は、1925年に医師のケーシャヴ・バリラーム・ヘードゲーワール(Keshav Baliram Hedgewar)によって、ヒンズー教の文化団体として創設された。当初から多くのメンバーがインド独立運動に加わっていた。

ムスリム連盟がパキスタンの分離独立を掲げて存在感を強めると、RSSイスラム教徒を敵視する準軍事組織となり、ガンジーが提唱するイスラムとの統一国家に強く反対するようになったる1948年、RSSのメンバー、ナートゥーラーム・ゴードセーはガンジーを暗殺した。
今日でもRSSは、格闘技訓練を通じた青少年の心身鍛錬の組織として存続し、250万から600万人のメンバーを有するとみられている。直接的な政治活動は行わない建前だが、インド首相(2014-)のナレンドラ・モディ(Narendra Modi)もメンバーの一人である。

52【州議会選挙、緊張を緩和】
1937年、新インド統治法のもとで州議会の選挙が実施されると、国民会議派は圧倒的な勝利を占め、州レベルでの自治を担うことになった。この国民会議派の与党化に対して、ムスリム連盟は、パンジャーブベンガルで多数を占めたものの、他の州で少数派となったため、「ヒンズー支配体制」の到来として危機感を持つようになった。そのような中でインドは第2次世界大戦を迎える。

54【ハイデラバード、独立を堅持】
1947年のインド・パキスタン分離独立後、多くの藩王国は自主的にインド政府と併合したが、ニザーム藩王国(ハイデラバード)は例外だった。
ムスリムであるニザーム家は、ヒンドゥー教徒主導のインド政府への併合には反対だったので、現状維持とする暫定協定を新政府と結ぶ。しかし、インド大陸中央部に広大な領土を持つニザーム王国が、パキスタンの飛び地として独立してしまうことをインド政府は警戒した。
経済封鎖の後、1948年にインド政府軍はハイデラバードに侵攻、かくしてインド大陸最大かつ最後の王国はハイダラーバード州としてインド政府に強制併合された。この戦争で10万人の犠牲者(100万人とも)が出たといわれる。

58【"サルダール"・ヴァッラブバーイー・パテール】
ヴァッラブバーイー・パテール(Vallabhbhai Patel)は、1928年にグジャラートのバールドーリで、政府の地租引上げ政策を撤回させたことで一躍有名になり、以来「サルダール」(指導者)の名でよばれる。「基本的諸権利」決議採択で知られる1931年の国民会議派カラチ大会では議長を務めた。インドの大資本家とガンジーを仲介し、彼らの会議派への協力を確固たるものにした。

 

64【コミュナル裁定カースト制度を強固に】
1931年の第二回円卓会議(カード27)で、宗教別・カースト別の分離選挙制度が制定された。ガンジーは特に不可触民の分離選挙に強く反対し、無期限の断食を決行、アンベードカル(カード63)が妥協したためカースト別の分離選挙は撤回された。しかし、宗派別の分離選挙はムスリム連盟の主張によって導入され、これがパキスタン分離独立の布石となった。

71【ナンカーナの虐殺、全インドを震撼】
ジャリヤーンワーラー・バーグ事件(アムリットサル虐殺事件、Amritsar Massacre)。1919年4月13日、アムリットサル市(シク教の聖地)で行われた1万2千人の市民集会に対し、レジナルド・ダイヤー准将率いるインド軍一個小隊が発砲、1,500名の死傷者を出した。この事件によってインドの反英運動は激化することになった。
ダイヤー准将の行動は、イギリス政府からも非難され、大佐に降格の後、罷免された。だが、上院の保守派が彼をかばったことと、本人の健康状態の悪化によって訴追されることはなかった。

72【直接行動デー】
独立をもとめるムスリム連盟は,1946年8月16日を大衆的直接行動に入る日と定めた。その日、カルカッタでインド現代史上例のない宗教暴動が発生、イスラム教徒がヒンドゥー教徒を襲い,両教徒に死者あわせて4,700人,負傷者15,000人が出た。さらに暴動はベンガル東部やビハール州などに波及した。

 

【対戦記録】
2019年9月22日 (各陣営の説明)

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2020年1月11~12日 (ルール明確化)

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2020年01月26日

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