昨日YSGAで(GMT) Gandhiを対戦しました。
ゲーム「Gandhi」は1917年から始まります。
第一次大戦が始まった時、インドの知識層には国家概念が欠落していました。その結果、ガンジーまでもが、ヨーロッパのイギリス軍を積極的に支援したのです。
戦争協力に対するインド総督の裏切りと、イギリス留学したインド人達が近代国家の概念を持ち帰ったことから、第一次大戦の終わりごろから、インド人知識層の間に国家独立の概念が芽生えます。
プレイヤーは、「インド政府」「国民会議(ガンジー派)」「イスラム派」「革命ゲリラ派」に分かれ、その混沌とした情勢は、ターンが進むにつれていっそう複雑化します。
政府以外のプレイヤーは、地域を支配する能力がありません(従ってControlマーカーがない)。ガンジー派の目的は、テリトリーを確保するのではなく、独立運動の勢いを維持・拡大することです。さらに言えば、ガンジー派とイスラム派は軍事力がゼロです。
ルール上は、インド政府が武力を行使した場合、その地域の反政府派は完全に壊滅します(実際、1935年までに独立運動のほとんどは消滅した)。しかし、ガンジー派とイスラム派が組織的に抗議行動(Protest)をするなら、そのすべてに政府軍を送ることは不可能であり、対応できない地域では、反政府活動家がBaseを作って拠点化するでしょう。政府プレイヤーは、弾圧のためのリソース(収入源)を確保する必要がありますが、そのリソースは反政府活動(Strike)によって毀損されます。
救いは、反政府派が三派に分かれて競いあう結果、反政府側の戦略が分裂することです。問題は、インド政府とガンジー派間の争いに対して、イスラム派がガンジー派と共闘するのか、漁夫の利を決め込んでパキスタン建国に専念するか、ですが、イスラム派がガンジー派と共闘して得られる利益は、まったくないかあってもほんのわずかだと思います。
ガンジー派は、パキスタンの分離独立を阻止するという、史実でも実現なかったことを達成しなければなりません。真の敵はインド政府でなく、イスラム派です。しかし、政府に勝ち、さらにイスラム派にも勝つことは容易でないと思います。
ルール上、反政府活動は長続きしないようになっています。すなわち、政府の支配力を排除するには過半数に相当する反政府ユニットを活性化しなければならないのですが、活性化したユニットは、容易に政府軍の目標となって弾圧を受けます。また、数ターンかけて地域に根付かせた抗議行動(Protest)とストライキ(Strike)運動は、キャンペーンターンの終わりにすべて除去されます。
(これは、5~7年周期でインド人が政治に飽きることを表しているのでしょうか?)
三派が分裂したままなら、最後まで分断を維持すればよいイスラム・プレイヤーが勝利条件上有利です。イスラム・プレイヤーにとっては、インド政府と国民会議派が激しく争って消耗するだけで勢力拡大になるわけです。史実では、イスラム派はインド政府に協力することで地盤を固めています。
インド政府にとってのベストシナリオは、国民会議派とイスラム派の勢力が小さいうちに芽をつみとってキャンペーンターンになること、革命ゲリラ派が自分だけの利益を押し進めて、反政府運動を阻害すること(社会騒乱(Unrest)を増やすと鉄道ストが減る)でしょう。2人対戦ルールでは、政府と革命ゲリラ派を同じプレイヤーが担当します。その場合、革命ゲリラ派がRaj政府の手下になるのですね...。
インド総督が変わるたびに(5年に一度)、恩赦や融和政策が取られ、同時に政府は大きな税収入を得られるので、この潮目をどう利用するかが各プレイヤーの勝利の鍵と考えられます。
キャンペーンターンとキャンペーンターンの間の8~12ターンは政治的な移行期と考えられ、キャンペーンターンで5年間の総決算となります。最初の5年間が抗争の下地作り、次の5年間が決戦とするなら、Gandhiは少なくとも20ターンぐらい対戦しないと結論が出ないゲームと言えます。
今回、革命ゲリラ派・プレイヤーはBOTルールで動かしましたが、BOTルールは年々レベルが上がっています。他のどのプレイヤーよりも強かったのです。
以下は各陣営の説明。
Congress【インド国民会議】
元インド内務長官アラン・ヒュームの呼びかけによって、1885年に発足したインド人による政治団体。
当時のインド総督が国民会議の結成を促した理由は、インド政府と交渉できるインド人の代表団を作ることが「インド社会に増大してゆく不満のはけ口」となり、1857~58年の"大反乱"の再発を防ぐと考えたからだった。
第一回の政党大会にはインド人弁護士、教師、官吏などの穏健な知識人72名が集まり、王冠(イギリス王室)への忠誠を表明した。この大会は「ごく一部の中産階級の式典」の観はあったものの、半世紀前までは封建志侯の支配下で孤立していた知識層が、全国的に組織化され、共通の問題を論じたという点で大きな社会変革だった。
国民会議の規模は年々拡大したが(1884年406名、1887年600名、1888年1248名)、穏健な政治活動で出発した彼らは、バール・ガンガーダル・ティラクが参加した頃から急進化する。イギリスに対して自治を強く求めるようになると、インド総督は議会の保護者から弾圧者へと姿を変えた。
1920年までの民族運動は、中産ブルジョワジーや知識階級によるものであり、農民や一般大衆が参加するには、ガンジーの登場を待たなければならない。
(一部、森本達雄『インド独立史』中央公論社、1972年、P82-83から要約)
Muslim League【ムスリム連盟】
イギリスがインドを侵略した時点では、インドはムガル帝国による統治下にあり、多くの行政ポストをムスリムが占めていた。イスラム教徒にとって、インドのイギリスによる植民地化は、支配層だった彼らが一転して被支配層に落とされた出来事であり、人口比の観点からも、イスラム教徒がヒンズーに対するマイノリティの立場に置かれることを意味した。一方、ヒンズー教徒にとっては、支配者がイスラムからイギリス人に代わっただけで、当初は大きな変化を感じていなかった。
インドの民族運動が盛んになるにつれ、ヒンズー教徒の国民議会派が議員の大多数を占めるようになり、それに対抗するために、イスラム社会もヒンズーとの政治的・宗教的な違いを際立たせるようになった。増大するムスリムとヒンズーの軋轢は、イギリスの分割統治の原則と一致するものだった。
その意味で、1906年のムスリム連盟の発足は、国民会議派に対抗する勢力が誕生したという意味で、イギリス政府の利益にかなった出来事だと言える。
1905年のベンガル分割令の施行によって、国民会議派がイギリスの専制を激しく非難し、「英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育」の反英運動を打ち出すと、翌年、全インド・ムスリム同盟がイギリスによって承認された。
一方でムスリム同盟は、政府に融和的な立場を取ることで数々の譲歩を政府から引き出した。
Revolutionaries Guerrillas【革命派ゲリラ】
暴力革命路線をとった運動家をひとまとめのセクションとして表したもの。
19世紀末から、革命青年の地下組織が結成され、イギリス人に対して掠奪や暗殺を行った。
外国支配を憎み、それを終わらせるには力しかないと信じた彼らの多くは、性急な解決を求めた若者だった。いずれも数年の活動期間の後に逮捕、あるいは殺害されたり、穏健になって会議派に吸収されるなど、RSS(カード50)などの例外を除き、彼らの活動は短命に終わった。他の政治グループとは連携しないことが彼らの特徴である。
国会で爆弾を投げたバガッド・シン(カード14)、チッタゴン襲撃のスーリヤ・セン(カード24)は、英雄としてインドの教科書に載っている。1942から三年間だけ存在したチャンドラー・ボーズのインド国民軍(カード69、日本軍のマレー作戦に参加)も"革命家ゲリラ"の分類に入る。