En hommage à SPI

SPIへのオマージュ

(GMT) The British Way, Palestineの背景

ユダヤ人過激派IZL (Irgun Zvei Leumi, Etzel)の起源は遅くとも、1929年の「嘆きの壁」事件に求めることができる。

ユダヤ教徒嘆きの壁の前に私製の家具を置いたことが発端となり、アラブ人の暴動となった。
当時、イギリスの委任統治領だったパレスチナにはアラブ人警察官が300名、イギリス兵が100名しか存在せず、10日後に暴動が終息した時には、ユダヤ人死者133名、負傷者340名、アラブ人死者116名、負傷者230名が出ていた。

ユダヤ人の死傷者の多くが武器を持たない農民と市民であったのに対し、アラブ側の死者はイギリス政府による鎮圧の結果だった。

第一次大戦後から、ユダヤ人入植者が増えるにつれアラブ人との軋轢は増えていたが、「嘆きの壁」事件は、多くのイスラエル人にとって、信頼していた隣人(アラブ人)から突如裏切られたような出来事であった。

1920年に組織されたイスラエル自警団「ハガナー(Haganah)」が、いくつものアラブ人の襲撃からユダヤ居住民を守ってきたが、「嘆きの壁」事件以降、テロ組織がいくつか誕生した。ハガナーから派生したIZLもそのひとつだった。

IZLは、数十名の幹部と千名近くの「パートタイマー」から成る地下組織であり、1931年から1947年の間存在した。彼らはテロ行為を旨とする過激派集団であり、殺害の対象はアラブ人のみならず、イギリス兵士や高官にも及んだ。

IZLは、1937年から1939年の間にアラブ人数百名を殺害、第二次大戦中は反ドイツの立場からイギリス軍による軍事訓練を受けて西部戦線で戦った。1945年、委任統治政府がユダヤ人の移民制限を行うと、イギリス政府とIZLとの全面的な戦いになった。


シナリオの期間に基づく主な事件
:
1945年12月、エルサレムのイギリス司令部爆破
1946年2月、イギリス空軍基地襲撃、軍用機を破壊
1946年6月18日、5名のイギリス人をテルアビブの将校クラブから誘拐、後に2名を絞殺
1946年6月29日、Operation Agatha(別名ブラック・サバス)でイギリス軍が2,700名のイスラエル人を拘束
1946年7月22日、ブラック・サバスの報復にキングダビテホテル(イギリス司令部)爆破、兵士市民を含め100名死亡
1946年7月30日、Operation Sharek。イギリス軍第六空挺師団17,000名がテルアビブ市を封鎖、家宅捜索で787名を逮捕したが、多くが無実だったと言われている。
1946年10月、ローマのイギリス大使館爆破
1947年1月、Operation Polly。政府関係者がパレスチナ国外に避難した。
1947年3月1日、IZLが16カ所を同時攻撃、20人の兵士が死亡した。
1947年3月2日、Operation Elephantでテルアビブに戒厳令
この頃、100,000名の兵士のうち戦闘員は1/4にすぎず、パレスチナ政府は完全に劣勢に陥っていた。
1947年3月31日、ハイファの精油精製所を爆破
1947年4月22日、カイロ・ハイファ間の鉄道を攻撃、兵士5名が死亡
1947年5月4日、Acre要塞を攻撃、255名の囚人が逃亡、多くはアラブ人だった。
1947年7月18日、エクソダス号事件でイギリスは国際世論から非難される。
1947年7月28日、Operation Tiger戒厳令とIZL幹部の捜索
1947年8月12日、オーストリアでイギリスの軍用列車を爆破
1947年9月20日、イギリス政府、一年後の撤退を決定
1947年9月26日、IZLの銀行強盗でイギリス兵5名死亡
1947年9月29日、ハイファ警察署を爆破、10名の警察官が死亡


絶えない戦禍
イギリス政府がパレスチナ撤退を表明すると、ユダヤ人、アラブ人双方による襲撃事件が活発化、パレスチナはイギリス、ユダヤ人、アラブ人三者の内戦状態になった。

そして1948年5月14日イスラエル独立宣言を行うと、翌日、アラブ諸国パレスチナに軍事侵攻し、第一次中東戦争が始まった。