S&T Quarterly#3「スターリングラード」
今秋発売になったS&Tの別冊季刊誌第三号は、豊富な図解によってスターリンラードを特集している。
「スターリングラードの占領に何日必要か?」というヒトラーの問いに対し、第六軍パウルス大将は、「10日の攻撃と14日間の再編成が必要」と答えていた。
絶対に落とせるはずだったこの都市で、第六軍は予想できなかった抵抗にあい、結果はご承知の通り、スターリングラードは両軍が激突する天王山となり、翌年2月の第六軍の壊滅によって、戦争全体のターニングポイントとなった。
もしこの都市がスターリンの名を冠するものでなかったなら、ソ連軍は徹底抗戦しなかったかもしれないし、ドイツ軍も迂回したかもしれない。そもそも、ドイツB集団にとってスターリングラードは作戦の主目標ではなかった。
では、もし1942年9月の段階で、ドイツ軍がスターリングラードを迂回していたなら、第六軍は崩壊をまぬがれることができただろうか?
例えば、マインシュタインが第六軍の指揮官で、なおかつ作戦に完全な自由を与えられていたなら、スターリングラードでのソ連軍の抵抗に対し、ハリコフ戦(S&T#271)のように、十分な補給が得られる位置まで撤退し、反撃に転じたかもしれない。
これにより、東部戦線のドイツ軍は6~12ヶ月寿命が延びたかもしれないが、第二次大戦の帰趨を変えるまでには至らなかった、と考えるべきだろう。
そもそもブラウ(青)作戦が、ドイツ軍の補給能力限界を超えたものであり、実現不可能な代物だった。カフカス山脈を超えてのバクーへの進撃などできるはずがなく、仮にスターリングラード戦がなかったとしても、ドイツ軍はコーカサス地方で大敗を喫しただろう。
ソ連軍はバルバロッサ作戦開始前から、軍備の保有量において圧倒的にドイツを上回っていた(S&T#244)。にもかかわらず、戦争勃発の初年度、敗北を確信していたスターリンは、一部領土を割譲することでドイツと講和条約を結ぶオプションまで考えていた。
ドイツは、1941年の冬までに勝利できなかった時点で(ソ連軍がよほど重大なミスをしない限り)、勝利は不可能だった。
スターリングラード 運命の攻囲戦
アントニー・ビーヴァー (著)
五ヶ月におよぶスターリングラード戦は、スピードと機動戦術を得意とするドイツ軍の利点を生かせないものだった(S&T#232)。瓦礫と化した市街で、兵士達は装甲車両から降りて第一次大戦時代の浸透戦術に戻らなければならなかった。8~10名の班、火炎放射器、スコップ、手榴弾が主たる兵器だった。
膨大な一次資料に基づいて書かれた本書は、ボリス・エリツィンによるソビエト連邦解体に伴う一時的な情報公開の産物であり、S&T誌と異なり、敵への恐怖、憎しみ、飢えが丁寧に描かれている。 スターリングラードまで到達した第六軍は、途上の村人から食料を収奪し、あるいは集落を破壊、直接関与することが少なかったとしても、親衛隊による非人道的行為を熟知していた。
ウォーゲームでルール化されない戦争の一面を知るには絶好の著作と言える。